とある番組に寄せられた投稿
”胎児に染色体異常が認められ、
 死産の可能性もあるし、
 また、無事に生まれたとしても
 長くは生きられない可能性が高い。”
との医者の宣告。そして、
”それでも、出産を望みますか?”
と、問い。

結局、この投稿を寄せられた方は
全てを承知の上、産むことを決められました。
でも、
この世に産み落とされて、小さく産声を上げた赤ちゃんは
カンガルー・ケアの間に
眠るように逝ってしまったとか。

それでも、出産を経験したお母さんはもとより、
そこに立ち会っていたお父さんを
ほんのひと時であれ、お父さんとお母さんにしてくれた、と
投稿の女性は儚かった命にありがとうと
そう、綴っておられました。

強い女性だと思います。


こんな風に医学が発達して
生まれる前から障害のあるなしが分かるようになりました。
でも、それによって生まれる前に消される命も
出てくるようになったのかな、やっぱり。

次代に生命を伝えることは、生き物として一大イベントです。
そして、人間と言う生き物で言うと
子育ても大変なプロジェクトです。
それを行うのにあたり、万難を廃しておきたいのは
人情だと思うんです。

でも、だからと言って、生まれようとしている命を
選別し、取捨していいものなのかどうか…
とは言いながら、
「もし」と自分の身に置き換えると
それはそれで切実な現実問題も。
親は子どもより(普通)早く死ぬ。
どんな障害があったとしても、最期まで守ってやることは
多分出来ない。
だとしたら、自分の死後はどうすればいいのか…と。

生命は、人知の及ばぬところから来る幸い。
それを選り好みするべきではない。
ただ、その「祝福」を受けるべき。
そう告げるのは、私の理性的な部分。

でも、私は愛にも根性にも欠けたダメ人間だから、
障害のある命を選ぶ自信がない。
そう吐露してしまうのは、感情的な部分。

正しいと思うことを選べなくて、
記事を書けば書くほど堂々巡りを繰り返してしまいます。
でも、ほんの欠片でも
書いておきたかったんです。



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